第1幕 古代ロマン・出雲・杉・松

(講師 佐藤仁志氏
島根大学非常勤講師、公益財団法人日本野鳥の会理事長、NPO法人もりふれ倶楽部理事)

車窓から築地松(ついじまつ)見学

出雲平野は家がまばらに点在する散居集落であり、家の周りには屋敷林があります。出雲の屋敷林の特徴は、クロマツが植えられており、通常は行われない刈り込みが行われていることです。この屋敷林こそが「築地松」であり、世界で唯一のマツの屋敷林です。 築地とは土塁、土塀のことであり、なぜこの屋敷林が築地松と呼ばれることになったのでしょうか。出雲平野は低湿地地帯であり、雨が降ると洪水になっていましたが、広大な平野があり肥沃な土地があることから多くの人がここで農作物を作っていました。そのため、農作業小屋の周りに土を盛って土塁をつくり洪水から小屋を守るようになりました。そして、土塁の上に植物を植えて洪水に流されにくくするため、低湿地の中で育つ植物として竹類等が植えられ、その後、灌漑が発達し土地が乾燥し始めると、タブやマテバシイといった常緑広葉樹が植えられました。さらに乾燥した土地ができると燃料としても使えることからマツが好んで植えられたとのことです。

作物が実り生活が安定してくると、人々は競ってマツをきれいに刈り込むようになったそうで、その刈り込みを行う職人を「陰手(のうて)刈り職人」と呼びます。職人はたった一人で、梯子と鎌一丁で刈り込みを行うとのことで、大胆と思える鎌の刈り込みから、あの美しい築地松の曲線が生まれていることには驚きです。出雲の人々の拘りがこの曲線に表現されているのだと感じさせられます。

独特の曲線を持った茅葺の家と、その周りに綺麗に刈り込まれた築地松があるという光景は大変美しいものだったそうです。しかしながら、現在は茅葺の家は無くなり、松くい虫等の影響から美しい築地松が見られなくなってしまっているとのことです。築地松が無くなれば美しい郷土景観とともに陰手刈り職人の技術も失われ、この地域に刻まれている歴史とともに様々なものが失われていくようで寂しくも感じます。

三瓶小豆原(さんべあずきはら)埋没林公園

~巨大な埋没林から古代出雲の森林と向き合う~

「こんな巨木がこの地にあったの?この木は本当に約3500年以上も前の物なの?どんな巨木の森がここにあったのだろう?」という驚きと想像に満ち溢れた出会いが三瓶小豆原埋没林にはあります。 この地域には古くから「埋もれ杉」についての言い伝えがあったそうですが、その埋もれ杉が1983年の水田工事の際に発見されます。その発見をきっかけ調査が始まり次々に水田の下から巨木が発見されていきました。大きなものは直径約2.6mに達し、年輪は633あるそうです。展示されている巨木の迫力は予想をはるかに超えるもので驚愕です。

この巨木の森は、約3500年前の三瓶火山の噴火の土石流により閉じ込められたものであり、太古の森をそのままに見ること出来ます。埋没されていた杉を切るとその切断面からは今も杉の香りがするそうです。展示されている杉に触れてみる土石流に埋まっていた時の鉄の香りがします。また、樹皮も今まで生きていたかのうように綺麗に残り、その厚い樹皮に触れると絨毯のようにふかふかです。

その杉の巨木は1本の木からなるのではなく複数の木が合体してできた「合体木」であるというのも驚きです。複数の木が1本の木になるというのは大変興味深い樹木の仕組みです。 この巨木の太古の森にタイムスリップしてみたいという願望がふつふつと湧いてきます。

講演「出雲・杉・松」

日本は木の文化であり、その一番の功労者は杉です。3500年以上前から杉の丸木舟は作られており、縄文の遺跡からはマグロの骨が出てきていることから、縄文人は木の船で大海原に出ていたと考えられます。 杉は谷に生えているもので、自生林は標高の高いところにあり、日本の固有種であると考えられていますが、決してそういうわけではありません。杉は中国にも生えているのです。また、縄文杉は樹齢7千年と言われていますが、実際は三瓶埋没林で見たような合体木である可能性があります。

出雲大社は、直径が1m以上ある杉の木を3本束ねて1本の柱としていました。日本海側の巨木文化の集大成が出雲大社と考えられます。出雲大社から出土した柱を見てみると、年輪幅が天然木では考えられないぐらい広いのです。また、「出雲国風土記」には「宮材造る山なり」という記述があります。このことから、かなり古い時代から植林、育林が出雲では行われていたと考えられます。 松の語源は「神が天から降りてくるのを待つ」などから来ており、大変めでたい木で、日本人と非常に深い関わりの深い木です。 出雲の「築地松」は、他の地域の屋敷林では見られない綺麗な刈り込みが行われ、角には反りの曲線が入っています。出雲人の美的感覚と文化を表すものであり、後世に残したいものです。

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第2幕 昭和の里山ロマン・奥出雲・森・人・食

(講師 響繁則氏 島根県林研グループ連絡協議会会長、森の名手・名人
野田真幹氏 森林を守ろう!山陰ネットワーク会議島根代表)

森の名手・名人の循環型原木シイタケ生産現場~阿井地区~

木漏れ日のさす針葉樹林の中で整然と美しく並ぶシイタケの原木。美しく組まれた原木は森の名手・名人である響さんの手によるものです。 雪深いこの地では冬に原木を伐採し、春に玉切り、植菌をします。その後、原木を伐採跡地に枝をかけて伏せこみし、植菌後2回目の夏を過ぎると森林の中に移動します。そうするとその秋にはシイタケが生えきます。そして年月を経て伐採跡地は更新していくそうです。

昔、この地域に多くいた原木シイタケの生産者も、現在は数名になってしまったそうです。また、広葉樹の値もさがっていることから、現在は原木を手に入れることには苦労していないとのことです。広葉樹が薪等に使われなくなったことから、森が更新されずナラ枯れ等の問題が発生しているというのは悲しい現実でもあります

響さんはシイタケ原木を置いている針葉樹林を所有者の方から賃借しているのではなく、針葉樹林を整備する代わりに無料でお借りしているそうで、これも一つの森のつながりなのではと感じました。 また、響さんは原木シイタケだけではなく、稲作、牛の飼育も行っておられます。田の草刈りは牛の餌等のために一度に行わず、順番に行っていくとのことで、一度に刈ってしまうと「明日の餌が無い」、なんてことになるそうです。稲刈り後の稲わらは牛の餌になり、牛の寝床に使われたススキや笹等の敷料は田畑の肥料にされます。
すべてが繋がっていて、無駄なものは無いと感じさせられます。

阿井地区の昭和の山村ドラマ~聞き書きに取り組んで~

語り手 安部清氏、藤原東氏、泰中静江氏、和泉徳江氏

ズーズー弁(出雲弁)で語られたお話が、方言そのままに文章としてまとめられたのが「あい」です。子供の頃から牛の調教の手伝いをしていた安部さんからは「牛が働かなくなると、牛のお腹の下でワラビを焚いて働かせた。」なんて驚きの話が飛び出します。ずっと山仕事をしてきた藤原さんは「時代が進歩しても山仕事はつらいもの。」と、しみじみと語られます。

「昔は正月の元旦にはたくさん行事があったけど、「山入り木切り」なんて今は誰もする人がいませんね。」と、泰中さんは昔を懐かしみながらも行事を大切にしていきたいという思いを語られます。 当時、農作業の経験が全く無いなかで農家に嫁ぎ、農業のことはお義母さんに教えてもらったという和泉さんは「今も畑に出て仕事をしていると、これもお義母さんに教えてもらったこと。これもお義母に教えてもらったこと、と思い出す。本当にありがたいと思う」と、笑顔でおっしゃられます。聞いていて胸が熱くなり、本当の“つながり”とはこういうことなのかなと考えさせられます。

聞き語りの本「あい」の編集後記に「これらは、作られた話ではなく、また、特別な偉人の話でもありません。」という言葉があります。語り手の方々は、世界中がその人の伝記を読むような特別な偉人ではないかもしれません。しかしながら、この方々は私にとっての真の偉人です。その生きざまを少しでも垣間見させていただいたことに感謝の気持ちでいっぱいになりました。