11月2日 12時50分 松江市宍道町の島根県立ふるさと森林公園をバスで出発、一路JR大田市駅に向かう。途中松枯れによる枯損木の幹だけが林立する光景また、出雲市から西に向かうにしたがい、特にナラ枯れの被害木も随所に見られたことから車中は自ずとこれに関した話題に、今回のフォーラムに全国各地からの参加者からそれぞれの地域の状況あるいは、知見の話題などで大いに盛り上がっていた。

JR大田市駅に到着、ここでは大阪からの参加のNICE(日本国際ワークキャンプ)メンバ-の車の到着待ちで少々休憩、今回の実施NPO団体「緑と水の連絡会議」の和田事務局長から「車はすぐそこまで来ているようですので、もう少しお待ちください...」と。 参加者全員揃ったところでバスは最初の見学地、石見銀山で栄えた大田市大森町へ向かう(石見銀山は、大森銀山とも呼ばれる)、車中で和田事務局長から、NPO法人「緑と水の連絡会議」の紹介と、石見銀山、大森町、三瓶山などに関し説明がなされ、当該NPOは、国税庁認定の特定非営利活動法人として、県内でも初期の段階に認定を受けたとのこと、それにより社会的に認知され、近年のエコポイント制度などの取組みもあって、多くの企業団体から活動資金を受けることができ、このことが大変有難かった、とのことである。

今回「竹と向き合う」のテーマについて、和田事務局長から、この地区の竹は、モウソウ竹、マダケ、ハチクの3種類で、近年人の生活様態の変化から、これらの竹が利活用されなくなり無秩序に拡大する竹藪によって徐々に植生範囲を広げてきている、と。 それにより銀産出に係る多くの遺構、遺跡の景観が損なわれつつあることなどから、NPOとして、ここ石見銀山が世界遺産に指定される以前から、銀山遺構を取り巻く竹林景観の整備に関わってきた、との話があり、 また、資金の使用について、整備作業を、例えば森林組合に発注する等は、資金提供を受けた意志に反するとの思いからすべてボランティアで行っている、との話である。

やがてバスは目的地大森町に到着した。ここ、大森町は、銀の山と呼ばれる仙(せん)ノ山と、銀山川の流れる谷を挟んだ向かい側、山吹城跡のある山に挟まれた狭隘な土地に位置し、当時最盛期には、世界中の銀産出量の三分の一を産出していたといわれる日本の、しかもそのうちの相当量をここ石見銀山で産出していたようで、銀採掘の最盛期には人口20万人を数えたといわれており、奉行所、商家、遊郭、寺院等多くの人々が居住していたことなどから、相当賑わっていたようである、20万人当時の様子は偲びようもないが、現在の大森町は江戸時代末期の面影残している。5年前に世界産業遺産に指定されたこともあり、古い家並は整然として、なお、趣きのある風景となって見える。そういえば、自動販売機も木製の枠で囲われおり、あの派手な塗色とライトはこの地区には似合わない。

ここ大森地区も以前は観光のお客様にも竹ヤブばかりで、間歩(まぶ 銀鉱石採掘のための坑道出入口)もよく見えない状況にあったとか、当該MPOの作業は、出来るだけ観光のお客様から見える範囲でも活動し、適切な維持管理が必要であることを理解してもらうことも大切であると考えていると。 不要な竹は伐採後、竹チップとし、植栽の被覆材に、また、真砂土と混ぜて駐車場にてん圧して、草が生えにくく、雨水が浸透する環境に優しい駐車場が出来ていた。 アスファルト舗装に慣れたものには目が点に、いや、ここに竹が入ってる?...。
ここ大森の集落の上手にある大森小学校は当該MPOさんとはとても交流が多いようで、 学校の前の畑には、竹チップの山(これはいずれ肥料になるのかな...)、すぐ近くの緑色の直径3~4メ-トルはあろうドーム状の物体に参加者はこれは一体何?。そこで、和田事務局長ニコニコ顔で、「これはですねー、すぐそこで切ったモウソウ竹を使って小学校の子供達と何か作ろうか、と。そこで、竹を割って編んでこのような物ができたんです、ここに置いていたら、近くに植えたサツマイモのツルがこれこれとばかりに上手く利用していますね。」そういえば、ここは石見の国、今でも芋代官さまとも慕われている第19代代官の井戸平左衛門公のおひざ元、各地に頌徳碑が建てられています。

さらに、この地区では、竹テングス病が発生しており、よく見ると、立ち枯れたまま、あるいは、枯死目前のタケが混在した竹林が多く目に付いた。テングス病について、あるとき行政機関に話をしたところ、サクラのテングス病は聞いたことがあるけれど、竹にもテングス病ですか?と、当時のエピソ-ドをきかせてくれました。

罹患した竹を含め枯死した竹はやはり切り倒し竹林内を歩くことができるような状態にしたいとのこと。 平成24年度の新規施策のひとつに、「竹の杖プロジェクト」を実施されている。 銀山遺跡のある大森集落は、前述のように、古い家並みで道幅も狭く、世界遺産指定によって、観光客が増えると予想されたことから、車の乗り入れは地元生活者に限られており、そのため、観光客は徒歩が原則である。そこで、発案されたのが、「竹の杖プロジェクト」 である、高齢者をはじめ、必要とするお客様に竹の杖をお貸ししょうと、子供たちとハチクを切出し杖に加工したとのこと。(駐車場に置かれた竹の杖)

しかし、ここ大森町に本社があり義肢装具で世界的に有名な「中村ブレイス(株)」の社長から、「なんか、水戸黄門さんの杖みたいだな、若い人は使わんな...」とのお話しがあったとか。 ならば、と次に「竹の杖デザインプロジェクト」を展開し、なんと全国に公募し、そして数多くの作品が集まり、審査の結果優秀作品を表彰されたようだ。

中村ブレイス(株)は企業メセナの一環として多岐にわたり銀山の研究保全整備などに関わって支援をされている、当該MPOも活動に対して理解と支援を頂いていることがとても有難いということであった。 さらには、ここ石見銀山が世界遺産に指定登録される以前から、長年にわたり遺跡の保存活動等に関わった人々の話の聞き書き本「銀のまちをつくった人々」と題する本を刊行されていた。 「竹と向き合う」との今回のテーマも、ここまでこだわるの、と思わず声が出るほどに、この聞き書き本、なんと竹の紙でできているそうで、和田事務局長の話では、どうしても竹の紙を使いたいということで、九州鹿児島県の中越パルプ鹿児島工場に4トントラックで竹を持ち込まれたようだ、鹿児島でも竹は調達できたとは思うものの、やはり、ここ石見銀山の景観整備に伴って搬出した竹で作る紙にこだわったとか。この竹の紙、一般の本に使う紙に比べ、やや透明感があり、両面印刷では裏面の文字が少し気になるとのこと。

秋の日は日暮れが早い、バスで三瓶温泉へ、一日の疲れを癒して楽しみの交流会会場へ、いろいろな魚のぶつ切りが豪快に鍋の中に、この地伝統の「へかやき」という鍋料理とか、若いスタッフのそれこそ目分量のいい加減な?味付けで、やがてすべての鍋から良い匂いの湯気が...、「カンパーイ」の音頭で賑やかに交流会の始まりである。 自己紹介なども済み、宴たけなわの頃、和田事務局長ニコニコ顔で、「後ほど皆さんも竹の杖デザインプロジェクトに参加して、竹の杖を作ってもらいます、準備はしておりますので」と。

ということで、階下に移動し竹の杖の作成に挑戦、モウソウ竹の小割りしたもの何本かを使って竹の杖を作るもので、あくまで機能性を追求するか、それとも装飾性を主眼とするか、あれこれ悩んでいるうち、酔眼心なしか焦点が定まってきたような気が...。
ワイワイ、ガヤガヤ、あるいは黙々と、それぞれが「竹と向き合った」楽しいひと時でありました。

もちろんこの後再び会場に戻り、交流会は夜遅くまで続いたのは言うまでもありません。 翌11月3日は石見銀山の山頂部まで車で登り、その昔、博多の商人が日本海を船で航行中、陸地に光って見える山があったとか、この山が仙ノ山と呼ばれ、銀採掘の当初は路頭掘りされていた山である、いま付近一帯は路頭掘りの跡、間歩を随所に見ることができるが、この山頂部も整備以前は、一帯がハチクに覆われ当時の道、井戸、間歩など、今のように見ることはできなかったようである。それにしても、目の前に転がっている石ころがまさかとは思うものの銀鉱石に見えたのは私だけ...?。

今ここから見る仙ノ山山頂部も竹の伐採跡である、これからも植栽、草刈などの景観保全活動に当該NPO緑と水の連絡会議のメンバ-をはじめ、多くのボランティア、NICEの会員の皆さんの思い出に残る交流の場になることと確信した次第である。

野々村俊成